テクノは旅なのです。〜 Toby
2011年12月 7日 14:30
どうも、どうも。テクノ外交官のTobyでーす。今回、このブログを担当させて頂くことになりました。どうぞよろしく?。で、何を書くか、まだ決めてないですけど、ノリでいっちゃいます!
Gio-Goi T-SHIRTS / TRAYNING
いつもテクノ外交官やらテクノ大使やら言われていますが、最近は大したアーチスト活動してないし、それでも多数の人に慕われているのは、ラッキーな事だし、「全ては縁。」と感謝しています。自分にとって、90年代は、その大きな縁の波に乗ったカンジ。例えば、1989年、友人を訪ねて行ったメルボルンで、レイブカルチャーと遭遇し、その後は、イビサやベルリン等、世界各国テクノ巡礼! 当時はまだネット社会ではなく、ウィリアムギブソンのサイバーパンクを夢見る超未来志向でナイーブな時代で、音楽を通じて世界中に知り合いや、自分の居場所が出来るなんて、超クールだったワケです! で、メルボルン、東京、イビサ、何気ない出会いや知り合いを訪ねて行った結果、ベルリンのラブパレードに遭遇するわけですが、全ては、91年の夏にイビサ島で知りあったDJ Olafのお陰。ミュンヘン出身の彼が、ジャーマンテクノシーンへの道を開いてくれて、その後は雪だるま式に色んなDJやトラックメーカーと知り合っていったのですが、彼がイビサのスペースというアフターアワーで、僕に話しかけなければ、一体どうなったのでしょう? 日本のテクノシーンは彼に大いに感謝すべきですよね! 当時、現地には日本人なんて自分以外誰もいないし、めずらしがられたけれど、一番仲良くなった彼が、自分にこんな道を示してくれるなんて思いもよらず、一緒にドイツ中のクラブを巡礼していました。勿論、ただ遊んでいただけではなくて、何か使命感に突き動かされていたし、まさに「今、この波に乗らないでどうする?!」のイケイケ状態。当然、彼からSven Vath, Dr.Motte, Mijk van Dijk達へと知り会っていくのですが、彼らがテクノのシンボルである友愛の精神に則り、最初から受け入れてくれて、可愛がってくれたのは、何事にも代え難い思い出です。多分それは楽しい時間や空間を長期に共有した結果でもあるワケで、よくSvenには、「Tobyはどこにでもいるよな!」とからかわれたモノです。
当然、日本でも小規模ながらテクノブームが始まっていて、渋谷CAVE(現在のModule)で、DJ KUDO(aka Artman)が、正統派なテクノをプレイされていました。当然、自分にはドイツのテクノシーンと交流する為の地元のシーンも重要だったので、KUDOさんのイベントには、毎週欠かさず通っていたし、お陰でDJ Tsuyoshi君やDJ Wadaさん達と知り合うことも出来ました。当時、日本のテクノシーンでラッキーだった事は、このKUDOさんがシーンを牽引していたことだと想います。日本に居ながら世界に通用する主観を持ったDJプレイを毎週経験出来たので、現在の東京テクノシーンの土台が出来、リスナーの音楽的クオリティーを高める事が出来たのです。彼の絹のようにスムースなミックステクニックは、今でも世界一だと思うし、後年、SvenやLaurent Garnierも一目置く伝説的なDJです。当時はまだ、自分はDJになるなんて思ってなく、ただ日独テクノシーンを繋げる使命感に駆られて行動していただけで、幸運なことにKUDOさんと92、93年とラブパレードに行く事が出来ました。この時自分がハンディカムで収録した映像を編集して、東京のクラブ関係の友人に配ったら、あれよあれよとコピー増殖していき、日本のテクノシーンの手助けになったのは光栄なことです。
93年には、いよいよ行動開始! 友人達と一緒にラブパレードの創始者、Dr.Motteを日本に呼ぶことになります。彼が最初に来日したドイツ人テクノDJであることは間違いなく、当日は夏休みの最中の日曜日でしたが、3-400人ぐらい来てくれて、大盛況と同時に東京のテクノシーンの手ごたえを感じました。Dr.Motteも元々、チベット仏教や禅に興味があって、日本の滞在を楽しんでくれました。その時感じたのが、スピリチュアルなのは当然ですが、都会に生活していても、彼は信念をもってその生き様実践していること。ラブパレード創始者は伊達じゃないと、よくお寺や神社に行ったり、田舎の花火を観に行ったり、風流な時間を過ごしました。
94年は、日本のテクノシーンにとって大事な年です。西麻布Yellow(現eleven)や新宿リキッドルームなどで、テクノのイベントがレギュラーイベントとして始まりました。Yellowで開催されていたKUDOさんの「ZERO TURBO」の海外DJのブッキングコーディネーターとして活動を始めたのも、この頃。ドイツでは既にスーパースターだったSven Vathを招聘する事は、自分にとってライフワークでした。当時、彼自身、自分探しの旅のとして、よくインド、ネパール、バリ島など訪ねていたので、東洋の文化について非常に親しんでいたし、特に日本の食文化に興味を持ってくれたので、接待するこちらも楽しかった! 京都のすっぽん料理屋で、若い仲居さんが、料理を持って部屋に入って来た時のことです。突然目を丸くして、「スヴェン ヴァース?!」と叫びました。どうやら彼女はテクノファンで、その晩のSvenのイベントに行くつもりだったらしい。その後は料理長や他の仲居さん達が来て、いっぱいお酌されて、すっかりいい気分! 当然、その晩のイベントに、皆さんをご招待して、楽しい京都の夜となりました。
この頃には、自分も何とか人前でもミックスが出来るようになり、幸運なことに、山崎マナブ氏(サブライム)の紹介で、青山Maniac LoveでレジデントDJになる事が出来ました。当時ドイツでは当たり前だった「アフターアワー」を、アイデアとして提案すると、それが瞬く間に、マニアックの看板となり、東京の伝説的テクノクラブとして運命づけられたのは、皆さんご存知だと思います。
当時から、よくMijk van Dijkの曲をよくかけていました。マニアックのお客さん達に、次は誰を呼んでほしいと尋ねたところ、「マイク ヴァン ダイク!」という声が圧倒的だったので、早速コンタクト開始。早速ベルリンの彼のアパートを訪ねると、ボンバーマンの真っ最中。「TVゲーム好き?」と尋ねると、「日本の漫画もね!」と、「攻殻機動隊」のドイツ語バージョンを引っ張りだしてきました。「こりゃイケル!」と東京へのご招待、即決! 今回はクラブ企画ではなく、その頃から親しくしていたフロッグマンレコーズとの企画となりました。特にレーベルオーナーの一人、佐藤大くんや、Ken→goくん達がゲームやアニメ関係に携わっていたので、これ以外のコンビネーションはなかったワケです。
94年のクリスマスに、彼は初来日を果たします。日本に2週間近く滞在しましたが、偶然、Svenも休暇を兼ねて来日しており、総勢6人で京都の温泉宿に旅行したりしました。
佐藤大くんの提案で、晴海のコミックマーケットに連れて行った時はケッサクです。何たって日本のサブカルチャーで一番ディープな所に、まるで築地市場のつもりで見物に行ったワケですから! また原宿のビンテージ・シンセ・ショップ「FiveG」に連れていけば、「まるで博物館だ!」とすっかり気に入り、その後、来日の度にお得意様になっていきます。電気グルーブの「虹」も、たまたま僕の車で聴いたのがキッカケで、卓球クンとマイクはすっかり意気投合するワケです。
今にして思えば、テクノに関わってから一度も人間関係でイヤな思いしたことないです。
会う人、会う人、日本に行きたいと言ってくれます。多少はお世辞もあるでしょけど、これってすごい事だなと思います。今紹介したドイツの友人達は、テクノがキッカケで来日し、それぞれの興味のある事で、日本の文化に触れていった。そして同行していた僕も彼らを通して、自分の国の文化を再発見しています。そして自分も、以前は考えてもみなかった国々をDJとして訪問するワケです。例えば、フィンランドや東欧諸国、特に95年頃のプラハなんて、まだ元共産国の雰囲気が色濃くて、ゾクゾクしたものです。
Gi-o-Goi CASUAL TOP / EWRAP
テクノは旅なのです。
最後に、全ての出発点でもあるメルボルンについて。たまたま、友人が連れていってくれたウェアハウスパーティーは、まさに人生が変わった瞬間でした。誰でもそんな瞬間があると思います。当時オーガナイザーだったOllie Olsen氏は、過去には「INXS」のMichael Hutchenceともバンド活動していたオーストラリアの伝説的なミュージシャンです。そんな凄い人は露知らず、すごく僕の事を気に入ってくれて、一緒にアデレードのレイブまで誘ってくれました。これが全ての始まり。その時、初めて聴いたThe KLFの「The Chill out」は衝撃的でした。その後、彼に2回ほど再会することが出来、自分の旅の総てと、今までのお礼を伝えたのは言うまでもありません。現在、彼は地元の子供達に電子音楽を教えているそうですが、なんかカッコ良くて、いまだに憧れちゃいますね!
では、みなさん、いい旅を!
Gio-Goi T-SHIRTS / TINNIE
青山 trigram 2011.11.26 23:00
Photographed by Kei Mrata