アナウンサーと僕の話
2012年4月 5日 13:58
以前ここのブログでも触れていた、90年初頭にshop33で伝説的なTシャツ「シャア専用」を生み出したデザインブランド「アナウンサー」の丸橋氏が当ブログに初寄稿してくれました。彼のFacebookで懐かしのRISING HIGH RECORDSのレコードバッグを友人3人が一緒に持って写っている写真(最近の!)がアップされているのを見て、感激して思わずコメントを送ったのがきっかけで快くブログのオファーを受けてくれました。(next33/Aratake)
みなさんはじめまして。
90年代に「アナウンサー」というブランドをしていた丸橋圭太郎と申します。このたび縁がありまして寄稿させて頂きました。
当時から今までの何となくを少しずつ書こうと思います。
■アナウンサーと僕の話■
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大学入りたてで友達もまだ殆どいない時期に白いT-shirtsに赤で「シャア専用」と赤マジックで書いたのが最初の作品だと思います。校内を歩いてました。
その数ヶ月後、理系から美術に転向した僕は、美大を目指しながら浪人時代にシルクスクリーンで赤いT-shirtsに初めて印刷しました。92年の春だったかな。ちょうど20年になるんですね。
アナウンサーは自分なりには現代美術のような「作品」のつもりで考えていたのですがメッセージ性が強すぎたんだと思います。
自分としては戸惑ったのですがメディアなどで「馬鹿T」という有り難いジャンル名を頂きました。
必ず話題にしていただく「シャア専用」T-shirts、あれ、手描きなんですよ。一番カッコいいと思う書体を自分でデザインし、ケント紙に製図用インクを使い、カラスグチで描いてあります。
桑沢デザインというスパルタなデザイン学校の生徒だったのも関係してるかもしれません。のちにMacも取り入れましたが、当時はほぼ全て手描きで作っていました。
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最初に僕の「作品」を理解し、具体的に大絶賛してくれたのは、StereoTypeProducts(アシュラファースト)の山田大輔くんでした。その後、僕は彼にデザインをずっと習っていました。
作品を見てもらうとかアドバイスをもらうとかでしたけれど、充分すぎる僕の師匠でした。攻殼機動隊の作品群は今でも宝物です。
少し疎遠になっていた彼の原宿で行われた追悼展でふれた映像作品には大変驚きました。将来的に映画がとりたかったんですよね彼。
2004年夏の山田大輔追悼展、日程の間は毎日通い、映像の前では体育座りをしてずっと眺めていました。彼から受けた身体に染みる程の計り知れない影響は、近くにいたひとりとして、カタチにするべきだなと改めて思いました。それで当時中途半端だった美術のすべてを勉強し直しました。
自分のモチベーションの極端な高さゆえ浮いてしまっている僕を初めて認めてくれた山田くんのおかげで脱線せずにデザイナーになれました。お返しがしたかったし、社会にあれほど影響を与えた彼のことを忘れさせたくなかったんです。
StereoTypeProducts山田大輔くん追悼展でのパネルの前で記念撮影。
それから8年ほどたちました。
僕はいまだに中途半端なのですがデザイナー、イラストレーター、映像関係をしています。
VJではフジロックやWIRE映像などにも参加させてもらってます。
一緒にVJすることの多いセーラーチェンソーの村上くんは「シャア専用」T-shirtsを中学生のときに買ったそうで、僕はその時に受け取った手紙をまだ大事に持っています。彼の支えるRAMRIDERさんも今年久しぶりにメジャーリリースをするらしく僕も映像をいくつか手伝っています。当時初めてRAMさんの作品をshop33で聴いた”かなLい気持ち”のは衝撃でしたね。
いまの僕の環境を作ってくれたのも、素敵な友達や仲間に引き合わせてくれたのも、僕をデザイナーにしてくださったのもshop33なのは間違いないです。みんなに平等にチャンスをくれるお店って今後また出てくるのかな?いつか店舗復活を心から願っています。
■テクノと美術の話■
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95年ころ、高校生だった弟から「変なテクノの先輩がいるから紹介するよ」といわれました。紹介されるまでもなく、顔がそっくりなのでクラブに並んでいる時に話しかけて来た彼は「丸橋君のお兄さんだよね?顔がそっくり。初めまして、加々美です。」
地元なのでしょっちゅう家に来ていた彼とはT-shirtsつくったり一緒にクラブいったり。よく遊びました。うちの階段でよく寝てましたね、勝手に炊飯器あけたり。黄色いバイクで登場したり。彼が僕をどう思っていたのかは分からないけれど、弟から紹介された時点で僕の中ではカワイイ弟あつかいでしたね。
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学生時代だったかと思いますが、当時、テクノをあらわす漢字って何があるかなぁと考えた末、雑誌ele-kingの編集部まで行き、編集長の机の上に「野田努」と書かれたT-shirtsを置いて来たことがあります。それが縁で編集部にデザイナーとして在籍していた時期がありました。怖いもの知らずです。ヤフオクで探している方がいらっしゃるようですが、このT-shirtsを持っているのは、僕と読者プレゼントされた方とカリレケブシュの3人だけです。この編集部で知り合った金田くんとはいまでも仕事でしょっちゅう連絡を取り合っています。ハードだったけれど自分にとってすごく貴重な時期でしたね。
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美大目指しながら学費を稼ぎ、やっとまた入った美大予備校の初日の風景は今でも鮮明に覚えています。黙々と石膏を描く学生の中にひとり強烈な人がいました。壁を叩いたり、他の生徒に対して叫んだり、石膏をなでまわしたりね。ぼくは大学を辞めてとんでもない世界に飛びこんでしまったんだなあと思いました。
17年ほどたったある日、データをHDDに移し終わるのを待つ間、ある方と浪人時代を振り返ったときのことです。歳が近い彼とはどうも同じ予備校に通っていたらしいと分かりました。アソコには美術系特有の強烈な人がアトリエにいましたよねぇと話してると、「当時オレもかなりアグレッシブでねぇ、ドレッドだったんだよねぇ」その当時強烈だった人は目の前にいるWさんでした。当時、美術界への強烈なイニシエーションを与えてくれたお兄さんからは、今でもとても影響をうけています。
当時のアナウンサーとはかけ離れてるけれど最近の作品
マイクバンダイクJAPANツアー2011ポスターのお絵描き(アクリル絵の具)と、攻殻っぽいデザインをアナウンサー名義でやりました。1メートルくらいあります。
RYUKYUDISKOの哲史くんのアーティスト写真をエアスプレーで描きました。
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僕は美術しか出来ません。これからも映像や音楽の隅っこの美術で生活していると思います。
お店で出会った友達やDJやVJや店員さんやデザイナーさんやベーグル屋さんにも感謝です。
というわけでうまくまとまらないですが、このあたりで締めさせて頂きたく思います。こんな長い文章を最後まで読んで頂きありがとうございました。
元アナウンサー代表
丸橋圭太郎
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p.s.
復活再始動した猛毒のPV制作を手伝ったのがきっかけで
こんなイベントにも参加します。
”?猛毒・復活再始動ライブ?これで終わりだと思ったら大間違いだった!?「言いたい事も言えないこんな世の中にデッドリーポイズン!!」マキマキフェスタ2012春”
2012年4月5日(木) 東京都LIQUIDROOM ebisu
OPEN 18:00 / START 19:00
<出演者>
ライブ:猛毒/ 氣志團
オープニングDJ:石野卓球(友情出演)
オープニングアクト:手ノ内嫁蔵
VJ:セーラーチェンソー/ 丸橋圭太郎
ゲスト:DJ 急行/ DJ SIEGZEON / 猫ひろし/ ハウス加賀谷/ 掟ポルシェ/ mono(神聖かまってちゃん)/ and more(シークレットゲストあり)
http://natalie.mu/music/news/67192