Shop33とその後の物語 第七回 佐藤大 Vol.2

2019年11月17日 12:00

前回に引き続き、佐藤大さんとの対談の様子をお届けいたします。
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◆SOLD OUT

佐藤 当時から33は知ってたけど、敷居が高かったし、行ったけど何を買っていいのかわからない状態でした。CDレンタルとかもあるけど俺ここ住んでないしとか(笑)。そんな感じで行ってもすごすごと帰るみたいな(笑)。でもその後に『僕、33の準メンバーなんだ』って言う、当時アルファレコードで働いてた弘石さんに会ったんですよ。『KamikazeYMOじゃん!』とか思って(笑)。

荒武 知ってたんだ(笑)?

佐藤 宝島的な文化圏は知ってたんで(笑)。それでTGNGをやってたことを知っててくれたのかな、弘石さんが。それで面白いクラブがあるからって92年位の時に「トワイライトゾーン」とか「キー・エナジー」とかのクラブに行ったんです。そこで石野(卓球)くんとか、YO-Cとかと仲良くなったんです。ただまりんとは、その前にゲームの雑誌で一緒に連載とかをやったりしてて知り合ってたんですけど。その頃「ゲームフリーク」という会社にいたんで。

荒武 そっか、ゲームフリークにいたんだよね。「SOLD OUT」にいたのはもっと前?

佐藤 「SOLD OUT」にいたのはもっと前ですね。18のとき。その頃の同期が大根(仁)監督です。

荒武 同い年くらい?

佐藤 年齢的には彼が1つ上で、「SOLD OUT」に入ったのは僕のほうが1年先で。当時、代表だった秋元(康)さんと堤(ユキヒコ)さんはニューヨークに住んでたんで、彼はニューヨークの方にいて、僕は東京の方にいて、お互い電話番をやってるって感じでした。元々ハガキ職人崩れなので、ハガキ職人になりたかったけど、全然芽が出ず。



荒武 ハガキ職人だったんだ?

佐藤 そうそう、というか、放送作家になりたくて。それで、東京放送学園っていうTBS系のアナウンス学園みたいなところに18で通っていたときに、秋元さんたちが特別講演会で来るっていうのでそこで知り合って事務所に潜り込んだんです。そこから21位の時まで、「SOLD OUT」に所属することになって。その後「SOLD OUT」を辞めて時間が出来た時にクラブにも初めて行ったんですよ。その頃、「THE FUSE」ってホコ天から人気の出たバンドのメンバーと音楽ライターとして知り合って。彼らがマンチェにハマってる話を聞いて取材でいくことになり、僕も89年か90年位にマンチェスターに同行したんです。そこでHaçiendaも行って。FactoryとかJoy Divisionとか大好きだったから凄く感動しました。



荒武 じゃあほとんど僕と同じくらいのときに行ってるんですね。卓球さんもそのくらいのときに行ったって言ったもんね。皆同じじようなときに行ってたんだね。

佐藤 ただセカンド・サマー・オブ・ラブも下火になってからだったんで、完全にハイプでしたけど。僕にとってははじめてのHaçiendaだし、Peter Savilleだし、超テンション上がってましたけど、既に観光地でしたね(笑)。僕は当時そんなこと気づかなかったですけど。すげー!って圧倒されてた(笑)。その後ロンドンでもクラブに行ったんです。「Brain」っていうクラブ。そこで代表のMark Wiganとも話が出来たんです。僕は、当時マリオかソニックのTシャツ着てたんで、彼もゲーム好きみたいで『お前日本人だろ』みたいな感じで食いついてくれて。その時にTerry Jonesも紹介してもらえたんです。それで『i-D Japanで僕はこういう記事を書きたい』って言ったら、『じゃあ紹介してやるよ』っていうことになったんで、東京帰ってきてi-D Japanに行ったら全然話してくれてなくて(笑)。



佐藤 まあそうだよねーとか思ってたんですけど(笑)。でもそこでi-D Japanと繋がりができた。あと伊藤ガビンさんやスタバ斉藤さん、船田戦闘機さんもライターとして元々知り合いだった事もあったり。それでi-D Japanで原稿書かせてもらうことになったんです。その頃、クラブにゲームを持ち込んでイベントやったら面白んじゃない?みたいなことも思ってたんで、まりんや「ゲームフリーク」の田尻さんを巻き込んでTGNGっていうイベントをやり始めたんです。

荒武 へー、そんな感じだったんだ。それが92年位ですか?

佐藤 そのくらいです。そのイベントに遊びに来てたのがNendoの草野くんたちです。イベント会場で会って、『Tシャツ作ってるんですよ』『Nick Philipそっくりだねー』『好きなんです』なんて会話をして(笑)。当時Anarchic Adjustmentも流行ってて、パンクからサイケデリックに変化してた頃で、ニックがロンドンからカルフォルニアに移ってからのデザインのTシャツを着てました。当時は、インセインとかステューシーとかのストリート系のファッションが大好きだったんです。

荒武 ニックがUFOのグラフィックとか、段々スケーターとは違う毛色に変わっていったんだよね。

佐藤 決定的なのが鉄雄のTシャツですよ。完全にサイバーパンクに行っちゃって。そこら辺の頃に、弘石くんとケンゴとかあの辺と知り合って、DJのR1を六本木のクラブで追っかけて、そこで知り合った人たちとFrogman Recordsをつくることになるんです。




◆音楽との関わり

荒武 フロッグマン始めたのはいつぐらいなの?

佐藤 レコードのリリースは93年です。そのちょい後くらいにele-kingが始まって。だからその頃の高速具合はすごかったです。

荒武 濃かったよね。やっぱりそのくらいの時期がターニングポイントというかスタート地点になってるんだね。

佐藤 そうですね、92年ぐらい。89年ぐらいにロンドンが始まって、噂を聞いて、行って、すげーってなって、俺達もこういうクラブイベントやろうってことになったんですけど、「トワイライトゾーン」とか不良イギリス人たちがスクワッター的なイベントをもうすでにやってて、そこに遊びに行くようになったら、どんどんそういった友達が増えていったんです。その頃「ウゴウゴルーガ」がちょうど始まる時期で、野澤現ちゃんや田中秀幸さんとかはクラブで知り合ったし、みんなその頃にクラブで知り合ったんです。パンクやHip hop系はちょっと僕は怖かったんで(笑)、流れが違うじゃないですか?ああいう服とかも好きだったんですけど、自分はテクノっていうのが元から好きだったので、リアルタイムに来た感じがしました。



荒武 そうですねー。あの頃に始まったって感じですもんね。

佐藤 その頃、ロンドンにいた小林泉美さんがフロッグマンのプレスをしてたんですけど、同時に「とれまレコード」のプレスも担当してたこともあってそこにも出入りしてたし。その頃は音楽ライターもやってたんで、WARPも行ったし、Cold Cutのメンバーにも会ったりして。

荒武 そうですよね。「GENERATION'N'」のデザインもThe Designers Republicにやってもらってるんですもんね。



佐藤 そうなんですよ。イアンに頼んで。

荒武 これは時期的にもっと後ですか?

佐藤 もっと後です。シェフィールドに行ったときにイアンに会ってお願いしたんです。あの頃ってバイタリティーあったのかな、かっこいいなと思ったレーベルに住所が書いてあったら行っちゃおうぜみたいな(笑)。みんな結構相手してくれるんですよ。そんな感じでリパブリックに行ってイアンに会ったときも、『WARPのライナーノーツも書いてるんだ』っていう話から仲良くなって。その後、ARTIFICIAL INTELLIGENCEのジャケをやってたCGのアーティストのPhil Wolstenholmeにも会えたんで、PULSEMANのCDジャケット作ってもらいました。



佐藤 その頃はそういった人たちにも沢山会いましたね。本の発売は98年だったんですけど、94年から2004年まで10年間、毎年ドイツのベルリンで行われてた「ラブパレード」に行ってて。その辺りは本当に濃かったです。ただ、ラブパレードもだんだんハイプになっていって。電気のみんなはどっちかって言うと仕事としてベルリンに通っていったし、僕自身も2004年くらいには脚本の仕事にかなりシフトしていったこともあって、行かなくなっていったんですけど。ビバップから数年後に攻殻機動隊(S.A.C.)のテレビシリーズに参加して、攻殻の後からはいろんな脚本の仕事に誘ってもらえたんで、ダンスミュージック系のイベントには遊びには行くけど、自分から現場に仕事としてコミットすることは自然となくなっていきました。




◆ファッション

佐藤 33にTシャツおろしてたのは90年代の後半でした。

荒武 ブランド名なんだっけ?

佐藤 「ウォータードロップス」です。「プロジェクト・リアリティ」とかニンテンドーのプロジェクト・ネームを使ったデザインのTシャツとかです。肩にSilicon Graphicsのロゴとか勝手に入れたりして(笑)。「クレアヒート」っていうブランドの女の子たちに手伝ってもらってやらせてもらってたんです。

荒武 何点くらい作ったっけ?

佐藤 10点ぐらいじゃないですか。それもシルクを手摺りで限定だったんです。

荒武 そうだよね。だから俺もどんな作品だったか全然覚えてないもん(笑)。数が少ないんだもん。

佐藤 めちゃくちゃ少なかったですからね、限定20着とか(笑)。完全に「売り切り!」みたいな(笑)。



荒武 そうだよね。商売な感じじゃなかったよね。こっちも全然商売になってなかったんだけど(笑)。

佐藤 タグだけいっぱい作って、HanesのTシャツのタグだけ切って、そこにプリントして自分たちのタグを縫ってつけて卸すみたいな(笑)。

荒武 でも結構売れてたよね。だからお店に置いておくとすぐ売れちゃってなくなっちゃうから、どんなデザインだったか全然覚えてない(笑)。

佐藤 全然大丈夫です(笑)。本当に酷いデザインでした(笑)。酷いっていうのは、ゲームボーイのロゴとかをそのまま使ってたという意味で(笑)。NendoやLEVEL1とかみたいなアレンジもなく。ただ彼らの直前くらいにそういうのをやってたんです。ゲームライターもやっていたから、当時、任天堂とSilicon Graphicsが組むっていうようなプレスリリースとかをもらえたんで、そのFAXのコピーをそのままTシャツにプリントしたりして。今考えたら完全に犯罪ですよ(笑)。

荒武 なんかねー、いい時代というか大らかな時代というかね(笑)。今だったらありえないけどね。そういうのがむしろ良しとされてた節もあったよね。STUSSYなんかも、コピーしてやってくれるのはむしろ宣伝になるから、どんどんやってくれみたいな感じの時代だったからね。



佐藤 だって、アナーキックもすごかったですもんね。AKIRAも無許可ですからね(笑)。大友さんも当時クラブ来ていて、僕がアナーキックを誇らしく着てるわけじゃないですか、全然無許可なやつ(笑)。でもかっこいいみたいに本人も笑ってた(笑)。

荒武 大変なことだよね、今だったら。

佐藤 でもその後でたメーカーのやつよりかっこよかったです。鉄雄の口のところがアップになってるやつで、薬が乗っかってるやつとか。

荒武 オフィシャルで©みたいになると、妙にグッズっぽくなって、つまんなくなっちゃうんだよね。あの頃は無許可のほうが不思議と作品に見えたもんね。

佐藤 Tシャツがメッセージと言うかプラットフォームというか、そんな感じでしたもんね。ASYURAのTシャツを見たときにそう思ったし、TARとかもそうだったし、そういうのは大きかったです。それでGIO-GOIが来るじゃないですか。33で売ってたTシャツとか一点物ってめちゃくちゃかっこよくて、それをスタイリストの宇山ちゃんがピックアップして色んなアーティストがCUTiEとか宝島とかそういうところで載ってて。そういう全体的な相乗効果の波みたいのがあったから、タグだけ作れば自分たちもブランドできるんじゃないかっていう気持ちがありました。


◆フロッピーマガジン その1



佐藤 それでみーごちゃんとかと会って、33のいわゆる内側というかそういうところと知り合いになっていったんで、フロッピーのアクセサリーを作ろうみたいになったんです。

荒武 中に小説入れてたりしてね。あれはかなり面白かったよね。大ちゃんに今の東急インに一日缶詰になってもらって上げてもらって。

佐藤 そうだ!それをコピーしてね。

荒武 今考えるとかなり画期的だったよね。

佐藤 そうですね。やっぱり3.5インチのフロッピーディスクがモノとしてかっこよかったんです。僕ら世代的に言うとディスクって、New OrderのBlue Mondayのオリジナルジャケットのイメージだったし。デザインが当時のPCの5インチディスクのパロディーになってて。だからそれの3.5インチ版みたいな感じなんですよね。すっごい安いフロッピーを問屋かなんかで買ってきて、手摺りならぬ手コピーをMacでして(笑)。ディスクにファイルを一個づつ入れて、ラベル貼って、チェーンみたいなのをつけて首飾りにして(笑)。でもあれも売れましたよね?

荒武 いやー、あれも売れましたよ。福富くんとかと一緒にやってた木村かっちゃんが編集というかフロッピーの作り方を考えてくれて。



佐藤 あの頃、自分たちで何でもやっちゃうっていう感じがありましたよね。だけど、その作ったものを置いてくれる33があったのがすごい大きかったです。普通考えたら置いてくんないよなっていうものまで分け隔てなく、面白いと思ったら置いてくれてたんで。

荒武 こっちもわからんって感じのものもあったけどね(笑)。とりあえず置いちゃえっていうカオスの感じだったから。

佐藤 (ステロの)児玉さんもインタビューで言ってましたけど、学校の放課後っていう感じはすごいわかる気がします。なんか、店自体は狭いんだけど、あそこに置いてあるものは無限に広がってる感じがするというか。出会ったときに買わなかったら二度と会えないものも多くて。

荒武 当時はそういうものは多かったよね。

佐藤 だから(33には)めちゃくちゃ感謝してますよ。




◆吉祥寺

佐藤 でもいつの間にか僕ももう50代ですよ。

荒武 そっかー。同じ50代ですね。

佐藤 最初に知り合ったのが93年くらいでしたっけ?

荒武 確か大ちゃんが25歳くらいだったと思うよ。

佐藤 じゃあ知り合ってから四半世紀、付かず離れず。それでまさか自分が吉祥寺に住むとは思わなかったですら。敷居高かったし(笑)。あの頃吉祥寺に住んでる人たちが、『吉祥寺から出たくない』って話を良くしてて、森本さんとか。『何言ってんだろ』って思ってたんですけど、自分が吉祥寺に10年以上住むようになった今では本当にその気持ちがわかります(笑)。



荒武 どういう理由で吉祥寺に住むようになったの?ここら辺に知り合いが多いから?

佐藤 いやいや。アニメの脚本の仕事だけにしようって思ったときに、アニメ会社って中央線沿いにすっごい多いです。三茶に住んでた頃は、むしろ仕事の相手先は音楽系だったしDJっぽいこともしてたんで便利だったんですよ。下北、代官山、渋谷。六本木もタクシーで近いし。でも仕事が音楽系からアニメ系になったら、中央線まで遠いんです。国分寺に仕事行って帰ってきたら、1時間半くらいかかっちゃうんで。だからアニメの仕事するんだったら中央線沿いに住もうってなって。高円寺とか荻窪とかにするんだったら吉祥寺がいいなと思ってて。でも僕が吉祥寺に移り住んだのに、33は吉祥寺からいなくなってしまったという(笑)。ズレ具合がね、皮肉がきいててそういうもんだなと思ったり(笑)。

 

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Photographed by Kei Murata


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