90年代の僕のDJ ... duck rock
2011年7月17日 16:20
前回1993年以前の話を書いたので今日はそれ以降の話を書きます。
1993年この年はJunior Boy's Ownのレーベルが始動されて間もない頃です。同時期Guerrilla, Cowboy, Fresh Fruit, Cleveland Cityなどたくさんのダンス・ミュージックレーベルが発足し、僕も夢中になり興奮したのをおぼえています。89年から既にあったXL Recordingsもこの頃更に盛り上がりを加速させていきました。そういったレーベルの曲群は言うまでもなく僕のDJでもヘビーローテーションでした。
僕はDJでありセレクターなわけで、それはどのくらい好きでよい音楽をプレイするかというシンプルな部分に尽きるわけですが...んー、当たり前過ぎる言い回しですね。つまりダンス・ミュージックのDJはミックス・スキルが必要とされるのはあえて言うには及ばない大前提で、なのでやはり上手くなりたかったんですね。僕であるという付加価値を付けたかったんです。人のレコードをかけ続けるだけといういわば単純作業な中、やはりミックスにはこだわりたかった。当時家でもやたら長い時間、部屋のDJブースに向かってました。今はもう上手くなったのでそれほどターンテーブルに向かう必要はなくなり、その時間はトラックメイクに当てていますが。その頃ミックス・テープ(CDではなく)を90分テープで年に5本とかのペースで作ってよくパーティーで配っていました。懐かしいです。
そして必要となるのがセンスとスキルというわけで、その頃発売されていたネタもの+こすりもの+ループ集のシリーズのレコードでタイトルは「ORIGINAL UNKNOWN DJS」。内容は例えばKRAFTWERK、TALKING HEADS、James Brown、またStone RosesのFools Drumsなんてドラムループなんかが収録されていたり。他にもVestaxやNINJAのネタもの、Break Beats & Scratch Traxのレコード・シリーズも当時よく買い漁っていました。また中古レコード屋に行くと、NASAの宇宙の音声、虫や鳥の鳴き声、牛や羊、波の音などのアンビエントや環境音楽的な素材集のレコードも当時よく買い漁りました。単にカッコいいというのもあったけど、これをDJに織り交ぜられないかということで、夏には波の音をSpectrumに混ぜたり、秋には虫の鳴き声をCameleonsやChina Crisisに混ぜたりして、自分ではなんてロマンチックなんだと思っていましたが、僕は何かとにかくいろいろやりたかったんですね(笑)。そうしてそんな中浮かんだアイデアが、Rolling Stonesの「Sympathy for the devil」+ ブレイク・ビーツでした。家でこの2枚のレコードをはじめて重ねてミックスしてみたとき「うおー、これだっ」と部屋で一人はしゃぎ踊ってしまいました。(そしてこのブレイク・ビーツは、のちにMUTE RECORDSから発売されたJSBXのDuck Rockのリミックスでも使いました。)そしてそれを実際クラブのDJでミックス・プレイしてみると、ダンス・フロアはすごい歓声でとてもクレイジーな反応でした。「うぉー、これがパーティーだ」と心躍りました。これは自分のDJについて思い悩んでいた頃を徐々に忘れさせてくれる出来事でした。
時代もジャンルも異なるタイプの音楽、そこには多少の音の質感の違いや違和感、唐突さがあると思って、そんな2つの音楽(2枚のレコード)をあえてBPMミックスできれいに重ね合わせてみたら?それはもっと言えばナンセンスであるということを逆手に取ってみるという僕なりのユーモアというか。90年代初頭は自身でエディットして作り込んでいたリミックス・ヴァージョンをDJプレイしていましたが、この頃から僕のDJはよりターンテーブリズムというかDJ的になっていきました。元々ヒップ・ホップの手法であり文化である「ターンテーブリズム」をこういう音楽でやってみたら面白い... というのは今書いていて思いついた分析で、当時はただただ夢中にやっていただけのような気がします。これがちょうど新宿のMC1000でDJをやっていた1993-1994年頃の僕です。
この頃同じMC1000系列のクラブがたて続けに出来ました。新宿Automatix、青山Maniac Love、赤坂Fine Lineと短期間に次々とが新しいクラブがオープンしました。いずれのクラブでもパーティーは行いましたが、いずれのパーティーも短命に終わってしまいました。そんな中よい思い出として残っているパーティーの1つにManiac Loveで月1平日に行っていた「Music Machine」。Maniac Loveの運営を行っていた広田さんに誘われて、テクノのQ'Hey君やアフターアワーズのハッピーな選曲でも人気だったPhil Freeにも参加してもらい、平日なのに沢山の人が来てくれ週末のような混み具合でした。当時にしては音楽性の幅がかなり広過ぎたこともあり、運営側のコンセプトと合わないとという理由等でこのパーティーわずか数ヶ月で幕を閉じてしまい、僕はかなり意気消沈したのをおぼえています。このお店での活動にかなり意気込み、賭けていた部分もかなり強かったので、これはショックでもあり挫折でもありさびしかったです。
その後90年代中後期、僕の活動も徐々にいい方向にも向かい、Slits, Basement Bar, Drop, Club AsiaなどのいろいろなパーティーでDJをするようになりました。音楽性はよりダンス色を強め、僕がインディーロック経由のDJという偏見は徐々に薄れていったようにも思います。インディーロックは好きですが、そこの部分に固執していないという意味で...。僕は自分のことをエレクトリック・ミュージックのDJだと思っており、その点については昔から変わらないのだけど、ただ「エレクトリックミュージックの中の何のDJか?」と問われると「困ったなあ」となってしまう。ハウス、ブレイクビーツが多いのかな?という気はするのだけど、好きなハウスと好きではないハウスがあるし、ハウスの曲群の中でもMadonnaは好きだがLady Gagaは全く聴かない、マライア・キャリーには関心がないとか。トランスなんて全く聴かないと言っておきながら、Mansunの「Taxloss」のJohn OO Flemingのリミックスが大好きでDJでかけたりもする。「あんたは何のDJか?」と言われると困るとまではいかないが説明に時間がかかってしまう。もう一つ言うと僕にはアティチュードがない。ただ自分が好きな音楽を結びつけて考えた時ある程度パターンや法則はある。音楽は大好きなのでそういう話はいくらしても飽きないが...
と話が少し逸れてしまいましたが、そうしていく中、時代も様々な音楽が生まれてきました。Drum & Bass, Big Beat, インディーシーンもCreation Recordsが数々のスターを生みブリットポップなんて言葉も。そんな中「...from across the turntable」は、場所をSlit(元Zoo)に移し、その後Basement Barで9年間の歴史に幕を下ろしました。時代も90年代が終わろうとしていたので、冷めた言い方だが何か区切りもよかった。終わりは始まりの... じゃないけど、その頃いろいろなことを考えながら、自分のDJネームを新たに「Duck Rock」という名前に変えることにしました。偶然かどうかは分かりませんが、名前を変えた途端、身の回りに味わったことのないいろいろな変化が起きました。
1994年頃 筆者とDJ Q’Hey氏 at AUTOMATIX