ボクのDJとしての成長、そして日本のテクノシーンの隆盛

2011年7月13日 17:40

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こんにちわDJ Q'HEYです。
今回2回目のブログ記事になります。

前回はボクがDJを始めた頃の話を書きました。
今回はそれからのシーンとボク自身の急成長について書こうと思います。

まずは前回以降の流れから。
下北沢ZOOでのレギュラーパーティー「DU27716」のレジデントDJとなり、ZOOがSLITSと改名して再スタートして以降は、DU27716でも一緒にプレイしていたDJ YASSのイベント「CLUB PSYCHICS」のレジデントDJとなったボクは、それらのパーティーに足を運んでくれてた人達から声をかけてもらい、他のクラブでもプレイする機会を得るようになってきました。

王子3D CLUB BIRTH

まず、王子にあった「3D CLUB BIRTH」のスタッフ浅野シンくん(現ミュージックマイン)が、同店で月イチでやってる「GUITAR HEAVEN」というイベントでのサブフロアを担当して欲しいと誘ってくれました。しかもオープンからクローズまでの間1人で。予算が1人分しかないから(笑)。サブフロアを開けてる時間はメインフロアよりも短かったけど、それでも6時間あります。毎月6時間のDJを一人でやることになったのです。とにかくギターロックを聴きに来てる子達に、ロック魂を引き継いだダンスミュージックをやってるボクがプレイするハウスやテクノを聴かせたいという趣旨だったと思います。

このサブフロアは独自展開することになり、「RELEASE」というタイトルを付けて、自分でデザインしたフライヤーも作りました。毎回来てくれてるひょろっとしたやつが印象的でしたが、その彼は後にMOODMANらと共に「SLOWMOTION」というパーティーをやることになったDJ MINODAだったり。

新宿MC-1000

新宿にできた「MC-1000」というハコのスタッフの門脇くんとヨーコちゃんも、下北沢に遊びに来てボクを誘ってくれました。ヨーコちゃんは、DJ WADAさんとKAJIくん(後にD&Bユニット「RHYTHM FREAKS」結成)とボクをレジデントDJにした「SPEED」という名前のパーティーを始めたという「夢を見た」ということで、それをそのまま実現させたのでした。DJ WADAさんの名前はボクも知ってたけど、MC-1000で共演することになって初めてそのDJを聴くことになりました。

ちょうどその頃、ハードコアになり過ぎたテクノやジャーマントランスへの流れに嫌気がさしていて、テクノというよりはUS・UKハウスばっかりかけていたボクなんですが、ここでWADAさんのピュアでストイックかつ緻密なDJを聴いて、再びテクノの良さを感じることができたのでした。あの時に感じたものは今でも忘れられません。彼はボクのテクノDJとしての恩人です。今も最前線のテクノをプレイし前進し続けているWADAさんのことはリスペクトしてやみません。

その後、そのMC-1000や青山のMIXをプロデュースした広田さんと豊崎さん(昨年没)のチーム「ハッピーコンプリート」が、青山に新しいクラブをオープンさせるという話になりました。彼らに「面白い場所になるからQ'HEYくんも行って見てみようよ」と誘われ、骨董通りにあるビルの地下1階にある、一面が白い壁になっているフロアに行ってみました。2人は「白い壁は敢えてこのままにする。ここにバルコニーを作って...」と楽しそうに語っていました。白い壁のクラブなんて見たことないし、大体階段の脇はガラス張りになってて防音とか大変そうだな。って思ったものでしたが...

1993年の12月、その場所にオープンしたのが後に東京のテクノシーンの総本山となったクラブ「MANIAC LOVE」です。

青山MANIAC LOVE

MANIAC LOVEには、前述のMC-1000でのパーティー「SPEED」をオーガナイズしていた門脇くんが初代店長となって、DJ WADAさんやKAJIくんはスタッフとして参加。当時WADAさんは毎週土曜のレジデントDJをやりながら、他の日はフロントで「いらっしゃいませー」ってやってたんですよ!KAJIくんはバーカウンターに入ってたし。ボクはこの頃会社員だったので、スタッフとしては参加せず。しかしこの33ブログにも記事を書いているDJ DUCK ROCK(当時Nobuhisa Yamamoto名義)と共に月イチ木曜のパーティー「MUSIC MACHINE」をやらせてもらうことになりました。

そして毎週土曜のWADAさんがプレイしているパーティー「SUBLIME」は大盛況に。オーガナイザーのDJ YAMAさんが立ち上げた同名のレーベルからはKEN ISHIIやSUSUMU YOKOTAらもリリースし、渋谷のBEAM HALLでSPEEDY Jを招いたライブイベントも開催。日本のテクノシーンが一気に加速しました。

土曜の「SUBLIME」から続行する形で早朝5時から10時までのアフターアワーズパーティーもスタート。当初はこちらもしっかりテクノで、他のハコでプレイしたDERRICK MAYやDAVE ANGELといった外タレも多く出演。もう時効だろうから言うけど、その頃彼らに渡してたギャラはほんの1万円程度。それでもみんなあそこでやりたがる程、海外アーティストへの認知度も高まりました。

そんなアフターアワーズは、YO*CやDJ SHINKAWAといった若手DJの採用で一気に様変わりします。WARP HOUSEと呼ばれたUK産のHARD HOUSEを中心にプレイする彼らのキャッチーなDJスタイルは瞬く間に大人気となり、超満員で寿司詰め状態となったフロアでは、人々から発せられる熱気が水蒸気と化して天井へ上り詰め、さらに水滴となって人々の上に降り注いでくる。まさに「クレイジー!」な状態。夏も冬も関係なく、全員汗だく。みんなドロドロになりながらも、それが何よりも楽しくて、毎週末通うリピーターだらけ。当時MANIAC LOVEに通っていたという人達の大半がこのアフターアワーズのことを指しているかもしれません。

MANIAC LOVEは2005年に閉店となりましたが、3代目店長で、最も長く期間この店を切り盛りしてきた和田ツトムは、ボクにとってもかけがえの無い友人となりました。閉店後、彼は新木場ageHaの企画部で活躍しながら、現在でも毎年8月に鎌倉由比ヶ浜でビーチパーティー「MANIAC BEACH」をオーガナイズ。今年は8月21日日曜開催!かつてのMANIAC LOVEでの狂乱を追体験できますよ!

新宿LIQUID ROOM、AUTOMATIX

1994年、新宿に巨大ライブハウス「LIQUID ROOM」オープン。こけら落としは初来日となるUNDERWORLDの2夜連続公演。この時サポートDJとして石野卓球、TOMO HIRATAと共にボクもプレイさせてもらいました。同年の暮れ、ハッピーコンプリートが新宿にMANIAC LOVEの姉妹店「AUTOMATIX」をオープン。MANIAC LOVEの「MUSIC MACHINE」も好調でしたが、ここではボクとDUCK ROCKはさらに別々のパーティーを持たせてもらうことになりました。ボクの方でスタートさせたのが「MOON AGE」というパーティーです。これは当初毎週月曜日開催でしたが、調子がいいのですぐに週末へと昇格しました。1995年の1年間はほとんどこのAUTOMATIXをベースにした活動に明け暮れてました。

CLUB VENUS

1996年、ボクにとって大きな転機がやってきました。新宿LIOQUID ROOMで開催される海外アーティストを招聘する大型イベント「CLUB VENUS」に、JEFF MILLSの出演が決定。そして当時誰もが見たいDJ No.1だったJEFFとの共演者にボクが選ばれたのでした。オープンと同時にプレイを開始するや否や、フロアにダッシュして押し寄せる人の波!あっという間にフロアは満杯!一気に1,500人くらい?ビルの7階にあったLIQUID ROOMの階段からずーっと繋がって道路の先まで並んでいた人達が押し寄せたんですから当然です。当然みんなの目当てはJEFFですが、この時のボクのプレイがかなり良かったようで、以前からボクを応援してくれてた人達から初めて見る人達まで、多くのオーディエンスにアピールすることができたのでした。その後もCLUB VENUSで頻繁にブッキングしてもらえるようになり、DERICCK MAY、CARL COX、ROBERT ARMANI、IAN POOLEYなどど共演。時には彼ら海外アーティストよりもいいパーフォーマンスが出来ることもあったりして、「外タレの前座」というポジションを超えることが出来たと感じることもありました。

RAINBOW 2000

そしてシーンもボク自身も盛り上がって行く中、1996年8月、日本ランドHOWゆうえんちで開催された初のオールナイト野外フェスティバル「RAINBOW 2000」開催。UNDERWORLDやCJ BOLANDを招聘し、国内のDJ陣も石野卓球やKEN ISHIIをはじめ、当時考えられる有名DJ陣をひと通り招集。ボクはROLAND TB-303 3台、TR-909、TR-808、TR-727、JUNO-106、SH-1というビンテージマシン類を外部シーケンサ無しで演奏する「HYPER CUBE JUNIOR」というユニットで参加。メンバーはCLUB VENUSのオーガナイザー久保憲司、日本のトップ・サウンド・エンジニア、アコースティックの佐々木幸生、パーカッショニストのNOGERA、そしてボクの4人。NHKの番組「ソリトン」でもレポートされたこのフェスティバルを契機に、日本のテクノシーンはピークタイムに突入します。

今回はここまで。なんだかQ'HEYの昔の自慢話ばっか聞かされたなーとお思いかもしれませんが(笑)、次回はボクが味わった「挫折」について書こうかと思います。

 

PS
東日本大震災を受けて、「BPM JAPAN - Be Positive by Music Japan」というチャリティー・プロジェクトを設立しました。同名の「BPM JAPAN」というレーベルも設立し、現在クラブミュージック向けダウンロード販売サイト「Beatport」にて、KEN ISHII、HARDFLOOR、MIJK VAN DIJK、PLANETARY ASSAULT SYSTEMS(LUKE SLATER)、MARCO BAILEY等、国内外のビッグネームアーティストの楽曲をコンパイルしたEPを1枚、アルバムを2枚リリースしています。

各アーティストには無償で楽曲を提供していただき、売上による収益金は、全額日本赤十字社を通じて被災者への義援金として寄付されます。それぞれの楽曲は個別にも購入できますが、20曲入りのアルバム購入で12.99ドル(約1,040円)と大変お買い得になっているので、是非アルバムでご購入ください。間もなく3枚目のアルバムが発売になりますし、リリース済み作品のiTunes Storeでの販売も開始される予定です。

アルバムのアートワークは、「AKIRA」や「STEAM BOY」等で知られる巨匠・大友克洋氏による描き下ろしイラストです。自身も宮城県出身である大友氏からもBPM JAPANにご賛同いただき、アルバム3枚に渡るイラストをご提供いただきました。

そして今回、BPM JAPAN Charity Album Vol.1のジャケットに使われたイラストのTシャツを、next 33で優先販売させていただくことになりました!

詳細は追って、こちらのnext 33のホームページで紹介していただくことになりますので、もう少々お待ち下さい。また、このTシャツの製造自体にかかるコストや消費税を除いて、収益金の全額を寄付させていただくことになります。

next 33によるご協力に深く感謝いたします。

DJ Q'hey

「MOON AGE RECORDINGS」主宰。東京でハードテクノの代名詞的存在とも言えるパーティー「REBOOT」、新木場ageHaにおいてレーベルパーティー「MOON AGE」をオーガナイズ。1989年よりDJ活動を開始して以降、日本のテクノシーンをリードする存在として常に最前線で活躍。国内最大級野外フェスティバル「METAMORPHOSE」に毎回出演を果たし、アジア、ヨーロッパ諸国でプレイする機会も多い。1995年から楽曲のリリースを開始し、2006年アルバム Q'HEY + REBOOT 「ELECTRIC EYE ON ME」をリリース、全国ツアーを開催。ミックスCDにおいては「SOUND REPUBLIC」「REBOOT #001」(共にKSR)「NYSO VOL.1:DJ Q'HEY」(YENZO MUSIC)の3枚を発表している。
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