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Free Paper / Cover 2004 / ISSUE October 2004
ISSUE 2004 October

STEREOTYPE PRODUKTS 山田大補追悼作品展
「Works」10/8(fri)~10/31(sun)

昨年8月、突然の心筋梗塞のため30歳の若さで他界されたステロタイププロダクト(ASYURA FIRST/United Brakes)アートディレクター山田大補氏の追悼作品展を33店内で行います。これは今年7月末に原宿で行われた作品展のコンパクト版になります。1996年から手掛けた数多くのグラフィック、映像、Tシャツなど、山田氏の作品の一部を展示します。山田大補氏の親友であり仕事上でのパートナーであったステロタイプ児玉氏にお話を伺いました。
※展示期間中、山田氏がASYURAで最後に手掛けたグラフィックTシャツのデッドストックを販売します。 購入はこちら

Desktop Pictures (UnitedBreaksのサイトに掲載予定だった作品です。1024px*768pxのみ)
Interview with Kenichi Kodama(stereotype produkts)
 
 
 
 
児玉「33では97年に初の展覧会をさせてもらって、今回山田の最後の展覧会もやれる事になって巡り合わせというか不思議ですよね。この前の原宿の展覧会でも多くの人が来てくれたんですけど、一番コアゾーンは33に集まってくれるお客さんなんじゃないかって思うので、お店ということもあるしたくさんの人に見てもらいたいです。」
荒武「こちらとしても嬉しく思ってます。しかし原宿での展覧会の空間はすごかったね。あれだけの作品が一気に見れるっていうのは。」
児玉「圧倒されましたね。そこに一人でいるとヤバかったです。自分の歴史でもあるので。」
荒武「児玉君はそうだよね。僕はあのプライベートなスクラップブックに心を揺さぶられました。あれは山田君の歴史であり脳みその中ですよね。一人のアーティストの頭の中を見たって感じで鳥肌モノでしたよ。」
児玉「あれは一番反応がよかったですね。みんな時間かけて見てくれて。当時はまたワケわからんもん作っとんなって感じだったんですけど。プライベートな作品ではあるんですけど“これ持って営業に行ってきて”って言われて正直困りました(笑)。」
荒武「え、プレゼンのツールだったんだ。」
児玉「自分ではすごい作品だったらしくて本気で言ってましたからね。“わかったそこまで言うんなら持ってくけど一番最後に見せるから”って(笑)。あれは22歳頃の作品なんですけど、作品の整理してた時に学生時代の作品も出てきたんですよ。それもすごくて。同じ地元で同じように育ってたと思うんですけど、こんなクレイジーなもの作ってたと思うと相当ヤバイなと思いました(笑)。」
荒武「マックがない時代に頭の中で“ここをコピーペーストしてここに置く”みたいなことをやってたんだよね。山田君って高校時代どんな感じだったの?」
児玉「ジーンズにペイントしたりとか、バンドもやってたんですけどギターに自分で 絵を描いたりその上にさらにシールをペタペタ何枚も貼ったりとか、ちょっと理解不能 な世界をもってましたね。」
荒武「山田君らしいなぁ(笑)。二人はいつからの友達?」
児玉「小学校からなんですよ。クラスは別だったんですけど部活がサッカーで一緒で。彼はその前ソフトボールやってて頭角表わしてたのに、なぜか急にサッカー部に入ってきてずっと補欠みたいな。何考えてるだろう、もったいないなって思ってました(笑)。」
荒武「彼がグラフィックに興味がいったのはいつぐらいなのかな。」
児玉「うーん、中学校くらいから美術とかは熱心にやってましたね。高校くらいになると自分でコンペとかに出してました。バイクの絵ばっかり描いてましたね。絵は好きだったみたいですよ。」
荒武「児玉君も興味あったの?」
児玉「それが全然なかったんですよ。絵描いてる人間なんてありえないって思ってましたから。ただ洋服には興味持ってました。」
荒武「高校卒業してからは二人はどんなことをしていたんですか?」
児玉「山田は大阪のデザイン事務所で不動産チラシを作ってました。でもち ょっと違う不動産チラシなんですよ(笑)。ちょっととんがってて。」
荒武「アーティストだからなにか絶対入れちゃうんだよね。それ見たいなぁ。児玉君は何やってたんですか?」
児玉「僕は東京に出てきて凸版印刷という印刷会社で色校正やって、そのあとも デザインと印刷会社が一緒になったような会社で営業やったりと全く意識してた訳 じゃないんですけど、デザイン系の仕事に縁があったんでしょうね。」
荒武「じゃあその頃に基礎ができてたんだね。 それは山田君も心強いパートナーって感じだったんでしょうね。それで二人がASYURAをやろうと思ったいきさつは?」
児玉「高校卒業してからしばらくは連絡取り合ってなかったんですけど、ハタチくらいの頃かな、山田から電話かかってきたんですよ。それでクラブの話や音楽や遊びの話は共通でできてたんですけど、彼がコンピューターの話やらなんやらしはじめて“なんやそれ?”って思って。面白そうだったし、たまたまお盆休みの前だったんで“じゃあお盆に行くよ”って再会することになったんです。一本の電話から。僕にとっては急な衝動でした。」
荒武「相当テンションあがったんだね。」
児玉「よくわからないけど面白そうな話してんなーって。それで久しぶりに話したらすごい面白くて。“なんか一緒にやろうよ、じゃあまず地元でパーティやろう”ってことになったんです。企画事態は二人で考えて、僕はプロモーション的な動き、山田はビジュアルを担当してっていうステロタイプの原点がここで出来ちゃってたんですね。お互いに“こいつとならなんかやれそう”みたいなものをすごく感じてて、そしたら運良くパーティーは大盛況で利益もでて、じゃこの金でTシャツつくろうよ!って事になったんです。」
荒武「その時Tシャツを選んだのは何か理由があるの?」
児玉「山田はグラフィックがやりたいって言ってて、僕は洋服やりたかったので間を取ってTシャツかなって(笑)。それに彼が専門学校の時に一度作ったことあるって言ってたんで、“え?Tシャツって簡単に作れんの?”って聞いたら“わりとできんで〜”って。“何枚作ったん?”って聞いたら“15枚作ったけどすぐ売れたわー”とか言うんですよ。これだ!と思って(笑)。でも全然わからないまま始めたじゃないですか。Tシャツの仕入れのこととかお金が入ってくるのは売れて一ヵ月後だとか。これはある程度お金ないと無理だなって。んじゃ借りようって。」
荒武「前に軍資金が足りなくてキャッシングしたって話してましたよね。勝負してんだなって思いましたよ。うちなんかも一番最初の買い付けの時“ロンドンはめちゃめちゃ面白いものあるらしくて行かなきゃいけない、でもお金がない、どうしよう”ってクレジットカードのキャッシングしましたよ。限度額いっぱいで買ってきたものを一ヵ月で倍にしないとキャッシング払えないじゃないですか。一ヵ月以内に売れないとアウト!(笑)。だから持って帰ってきてその日に売るみたいな。完全な自転車操業ですよ。」
児玉「博打もいいとこですよね。」
荒武「そうそう。でもその時はやたらテンション高いんだよね。これはイケル!とか。絶対売れるって確証があってね。」
児玉「すごいなー33にもそんな時があったんですか。でも僕らもそんな感じでしたよ。当時彼の グラフィック(Tシャツ)はもう雑誌とかに載ってる有名ショップみたいな所に置いてくれって 持って行っても断られたことなかったです。今考えるとすごい事ですよね。」
荒武「最初見た時、斬新だなぁって思いましたよ。『no future新宿』とか『東狂』とか文字が入っててね。AKIRAが80年代のサブカルチャーだとしたら90年代にマッキントッシュを使って表現したのがあれだなって感じだった。当時ドンピシャだったんだよね。遂にこれを描いたやつが出てきたかって感じでしたよ。」
児玉「この前の追悼展の時に書いてもらった堀川君(NUKE/JULIUS)の追悼文の一文で“マッキントッシュが武器として機能していた90年代。”っていう一文があるんですけど、あれすごく言い得てるなぁと。当時の山田にしてもNENDOにしてもマックをストリートに持ち込んだ先駆けじゃないですか。それまでみんなグラフィックで構成された絵って見る機会ってほとんどなかったと思うんですよ。そういう時代の大波の一番最初の所にドロップしたみたいな。あと展覧会場で来てくれた人と話しする機会があったんですけど、フロッピーっていうのもみんな引っ掛かったみたいですね。僕らTシャツにフロッピー付けてたんですけど、僕らの中ではフロッピーは重要なキーワードだったので5年間やりました。最後もうコピーし切れなくなってもうやめようよって(笑)。」
荒武「自分達でコピーしてたの?」
児玉「そうなんですよ。地道に。一日500枚とかやってましたね。アイコンも変えなきゃいけないしシールも貼って…コピーするだけじゃなくて何行程もあってかなり大変でした。」
荒武「村上(隆)さんが33に初めて来た時もASYURAのフロッピーに引っ掛かってあなぁ。」
児玉「昔、村上さんがフリーペーパー出してたじゃないですか。それに僕らのこと書いてるのたまたま見たんですよ。“最近shop33というお店に行きASYURAというブランドを見ました。フロッピーディスクがついており、とにかく面白そうな人達なんで一度会ってみたいです”って。それで山田に“村上隆さんって知ってる?フリーペーパーに会いたいって書いてあるんだけど”って言ったら“ああ聞いたことあるわ〜会ってよ会ってよー”って言われてて。そしたら電話かかってきたんです。」
荒武「村上さんがうちに最初に来た時に連絡先を教えたんですよ。ASYURAがメジャーな仕事に移ったのは村上さんがきっかけだよね。」
児玉「この前展覧会にも来てくださいましたけど、村上さんの存在は大きいです。 なんか僕らすごく出合いに恵まれてて、節目節目でキーワードとなる人物と出会ってる。 村上さんと出会った頃もちょうどTシャツからオフィシャルな仕事に移行することを望んでた 頃なんです。」
荒武「村上さんのエキジビジョンのポスターをデザインしたんだよね。」
児玉「そうです。最初『727』っていう村上さんの展覧会のポスターをやらせてもらいました。そのあと『攻殻機動隊』のパンフレット制作を一緒にやろうって言われて。その頃はまだ山田君は大阪に住んでいたので東京に10日間くらい出てきて村上さんとスタジオに入って作ったんですよ。」
荒武「村上さん“いや〜山田君ヤバいっすね〜天才だよ彼は!”って言ってましたよ。」
児玉「その後、彼は大阪から東京に出てきて、杉並の浜田山に事務所を構えたんです。 それが23の時かな。96年に久しぶりに電話で話して彼が東京に出てきたのが97年。 96年は僕にとっても山田に取っても人生の転機的な年だったんですね。ASYURAを始めて 村上さんに会ってっていう。」
荒武「ちょうど90年代の真ん中で、サブカルチャーが一番熟成している頃だよね。テクノなんかも相当面白かったと思うんですよ。レイブカルチャーが始まってコアな人間がみんな集まってる頃じゃないですか。一番最初の『レインボー2000』が96年に始まったから、アンダーワールドが大ブレイクした頃、レイブカルチャーが入ってきてサブカルチャーが力を持つ始まりの頃だね。」
児玉「『レインボー2000』は僕らも出店しましたよ。面白かったのが僕らまだ始めて 半年しか経ってなかったのに知ってる人は知ってたり、後で聞くと“レインボーでASYURAを 知りました、買いました”みたいな人も多くて。それから“俺もこれだ!って思ってグ ラフィック始めました”とかって人もいて、少なからず悪影響を与えてたんだなと(笑)。」
荒武「ASYURAの最初のデザインに影響受けてグラフィック始めた人って相当多いと思いますよ。まだレインボー自体レイブカルチャーやサブカルチャーのファーストコンタクトっていう人も多いのに、あんなTシャツ見た日にゃ相当覚醒されたんじゃないかな。でもよく考えるとTシャツで人生変えるってすごいことだよね。」
児玉「そうですね。でもよくよく考えると僕ら自身もTシャツで人生変えてますからね。 この間の展覧会で並べたデビュー当時からの大量のT-シャツを1枚ずつ見てたんですけど、 すげーとがってるんですよね。自分も洋服を作るようになって痛感してるんですけど、 とんがり続ける事ってすごく難しい事だと思う。それをここまでやっちゃた 山田の凄さを改めて感じましたね。これは周りに影響与えない訳ないよなって思いますもん。 でも10年近くTシャツを作ってるとさすがの山田も“またTシャツか、俺これから先Tシャツ何型 作らなきゃいけないんだろう”みたいな事をたまに言ってました(笑)。仕事の基本ベース がCD ジャケットなんかのオフィシャルなデザインワークに移行してきて、時間の無い中で 展示会の為にT-シャツを作らなければならないみたいな半強制的な感じの時もありましたから。 それにやっぱビジネスでやってる以上売れなければならないし、ユーザーは今まで以上のデザイン を待っているなんて考え出すとすごく窮屈になっていくんですよね。」
荒武「でもそれが山田君のやりたかったことなのかな?」
児玉「我が道を貫くじゃないですけど、当時彼がかっこいいと思うのがそこだったんだろうな って思います。この頃って僕も僕なりにすごく悩んだ時期でもあって、T-シャツにしても グラフィック、映像にしても役割的に彼の作品をどうやって世に出していくかって事が僕の 仕事だったんですけど、彼の希望でもあった大きな仕事へのキャリアアップを目指そうとするとき、 彼の強烈な個性なりアーティスト性を殺さないといけなかったりする場面が多々でてきて、 これで本当によかったのかなって悩む事はよくありましたね。 それで展覧会で作品を見ていた時にふと思ったんですけど、1999年から2000年くらいから 作品数が圧倒的に増えてるんですけど、今1つ作品に思い入れがないような感じに気付いたんです。 仕事量が増えて1つの作品に時間があまりかけられないような状況だったというのも理由としてあるん でしょうけど、くさい言い方すると作品が語りかけてこないみたいなね。 でもあれはあれで大切な時期だったのかなって。ああいう時期を超えたんでようやく次のステップに 入れたのが2000年代だったんじゃないかなって思います。」
荒武「ユナイテッドブレークスが始まったのもそのくらいかな?」
児玉「そうですね。仕事で二人でラスベガスに行ったんですよ。その帰り“だいぶキ テるからT-シャツちょっと作ってみるんで見て”って。それで見せてもらったらまたヤバいもん作っ たなぁと。めちゃ熱いもの感じて、じゃあレーベルとして立ち上げようと。」
荒武「ユナイテッドブレークスはもうレイヤーじゃなくて、線はソフトなんだけどメッセージや レイアウトひっくるめてとがってるって感じだったよね。かなり完成度が高かった。」
児玉「シンプルなのにめちゃめちゃとがってますよね。ASYURAの初期の頃、レイヤー デザインのことをに聞かれて“デザインはシンプルなものが一番いいってわかってる 。けど今は逆のベクトルをわざとやってる”ってよく答えてたんですよ。それが10年 キャリア積むことによって削ぎ落されて、最後はシンプルな形になった。だから20歳 くらいに目指していた自分のデザインのスタイルには行き着いていたと思います。よく展覧会 でそんな話をしてたんですけど、みんな早すぎたんだよなって言うんです。展覧会の追悼文にも 書きましたけど、1クリエイターとしてグラフィックは完成の域に辿り着いてたと思うんですよ。 晩年に力を入れてた映像は、きっとまだまだこれから向かおうとしていたステージが彼の中であったと 思うんですけど、グラフィックに関してはこれ以上ないだろうなって所まで来てたんじゃないかなと僕は思う。 削ぐもんは全て削ぎ落とす所まで行っていたし、文字組1つ見ても完璧でこれ以上ないって感じでしたし。 相方をよく言うわけじゃないですけど、彼のグラフィックは本当に美しかった。」
荒武「本当にそうですね。33epのジャケットもすごいよかったなぁ。」
児玉「あれ96年には考えられなかったデザインでしょう。女の人の裸なんて。僕ね、 死ぬ2年前くらいから彼によく言ってたんですよ。“人間的にすごくバランス取れて きたよね、作品に出てるよ。人間としてもすごくでかくなったよね”って。 アーティスト気質から始まって序々にクリエイターとしてのバランスを取り始めた時期で、 自分のカラーを出しながらもクライアントの要求にも完璧に応えて、グレイトな作品を 生み出していた。展覧会で見てもらいたいのが『BED』っていうプロモーションビデオ なんですけど、あれはクリエイターとしての仕事を120パーセント全うしながら自分のとんが った部分も出し切ってて、美しくて、かっこよくて、作品に吸い込まれそうな世界を作ってる んです。これは遂にネクストが来たなって本当に感じました。」
荒武「僕も究極の域に達してると思いました。」
児玉「彼の夢は映画を撮ることだったんですけど、これは映画も全然イケるなと楽し みにしてたところだったんです。10年間で遂に辿り着いた、彼の本当に行きた いところに一歩足を踏み込んだ時にあんな事になって…。後半はチームを作 って動かすみたいなことも始めてたんですよ。前は例えばカメラ撮りなんかも全て自分で やろうとしてたんですけど、プロに頼んで自分がやるより最高のものをあげてもらっ て、それを自分で構成してまとめていくっていう作業をし始めてました。現場の姿は 完全に映画監督でしたよ。」
荒武「それ聞くと改めて残念に思いますね。」
児玉「本当に残念です。センス、技術、評価も上がってきて、依頼される仕事の内容も 大きく変わろうとしてたから。」
荒武「でも僕思うんですけど、児玉君とか山下君とか継いでくれる人がいるっていうだけでも幸せな人生 なんじゃないかなって。普通は亡くなったら終わりじゃないですか。絵描きさんとかでもそれを継いでいく っていう風にはならない。まして組織体としてその流れを組んで何か違う形でやっていこうって形はあんまり ないと思うんですよ。イメージとしてはピンクフロイドみたいに中核だった人が初期に亡くなって、そのあと更に 拡大させていくってイメージなんだよね。そういうケースっていうのは稀だなぁと思うんですよ。“種は撒いたから あとはお前らやれよ、ここまでやっといたから俺のやりたかったことを拡げてくれ”って感じじゃないですか。 バンドくらいなんだよね、そういうのがあるのって。」
児玉「そうですね。荒武さんの言うようなピンクフロイドみたいなことはできるかわか んないですけど、そういうつもりでやっていきたいですね。今いただいてる仕事とか 彼の残してくれたものだと思ってるんです。死んだんですけど死んでないんですよ。 死んでからもなにかと彼に助けられてること多いですし。 今、手掛けてる『サムライチャンプルー』っていう作品のビジュアルは、死ぬ半年前 くらいから山田がクルーとして加わっていて、まだデザインのオーダーが来る前に 自主的に彼がプレゼンした20枚以上のビジュアルブックがきっかけとなって関連する ほとんどのビジュアルをウチが担当させてもらってて。それを山下がうまくイメージを 広げてさらに進化させてくれてます。本当に彼が残してくれたものを大きいし、広げていきたい ですね。」
荒武「山田君は渾身にやってしまう人だったからね。最高の置きみやげになったんだね。もちろん本人は予測してなかったことだけど。」
児玉「ですよね。あと僕この前の展覧会の時、初めてこんな気持ちになったんですけ ど、彼の作品をできるだけたくさんの人に見てもらって、彼の遺伝子を多くの人に伝えたいんです。 今までだったら同じクリエイターの方にはあまり作品を見せたくないっていう方が正直 強かったけど、今は本心で多くの人に山田が残した作品を見てもらいたいと思う。 会場でも写真撮っていいですかって言われたら是非是非撮ってくれって感じなんです。 大袈裟かもしれないけど、彼の残した作品はクリエイティブシーンの財産だと思ってます。見てもらうことで少しでも何か感じてもらって、それがその人の感性に加わることで何か新しいものが生まれると思うんです。それが一番嬉しいですし供養になるんじゃないかなって思ってます。」
荒武「モノを作る人としては冥利に尽きるんじゃないですか。それは僕なんかにしたら羨ましい人生ですよ。アーティストってその人の作ったものがずっと残るじゃないですか。普通は子供ぐらいしか自分の遺伝子残す方法ってないんだけど、クリエイターは作品として後生に残すことができる。それは永遠の命を得るっていうか不老不死なんだよね。あぁこんな人がいたんだなぁっていうただの回顧展じゃなくて、それを見てその先に未来に繋がっていくといいですよね。」
児玉「僕はそれを強く望んでます。今回が表向きに見せる最後の展覧会になると思うので、是非多くの方に見に来てもらえたら 嬉しいです。」
(2004年9月13日 下北沢にて)
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