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Free Paper / Cover 2004 / ISSUE October 2004
ISSUE 2004 October
山田大補 DAISUKE YAMADA

ステロタイププロダクトアートディレクター
愛媛県出身 昭和47年9月9日生
94年大阪デザイナー専門学校卒業後、広告代理店勤務を経て96年児玉健一とウェアレーベル"アシュラファースト"をスタート。翌年ステロタイププロダクト設立。グラフィク、映像、ファッションなど幅広いジャンルでクリエイティブワークを手掛ける。2003年8月24日、心筋梗塞にて死去(享年30歳)。
代表作品/攻殻機動隊ビジュアル、TK TAKEO KIKUCHIアートワーク、SOUL'd OUT CDジャケット、B.E.D プロモーションビデオ、ロッテルダム国際映画祭映像出品など。
追悼文
 
 
 
藤本健太郎(Nendo)
人は死んでもすべてが終わりではない。
魂はリサイクルされ、また別の生命として、どこか別の時代、どこか別の地に生まれかわるのだ。というのが、チベット密教の考え方だ。自分の中でそれを何度も咀嚼しなおしたけれど、たくさんの白い花といっしょに目をとじ横たわる彼の顔を見たとき、僕はその死の重さをはねのける事ができなかった。心臓はよくわからない力に四方から締めつけられ、気が付くと自分の右腕は自然に短い敬礼の動きをしていた。

彼がつくるグラフィックにはある種暴力的なまでのスピードがあって、それはA4とかDV圧縮とか、そういういろいろの仕切りには収まりきらないものだった。
その「速さ」の属性が、最後にこんなかたちで現れてしまうなんて。
無作為に彼を選んだ確率や因果律はときどきかくも信じられないような結末を突きつけてくる。

しかし彼の描いたものには、現世における肉体が引き留められなかったほどの遠心力を備えたソウルの残像が濃く残っているはずだ。たとえ魂がリサイクルされても、その残像は微細なアミ点やTシャツの上で乾いたインク、磁気テープ、磁気ディスクの中に、劣化せずに残り続けるのだと思う。

合掌/礼拝

堀川達郎(NUKE / JULIUS)
切り刻まれされたソース。重層的に展開するレイヤー。分解、カットアップ、激しく振れながら埋め尽くされたタイポグラフィー、グラフィックス、電気的な混沌。ハードコア、デジロック、ノイズにおいての極彩色。彎曲したキックボード、フィードバックするアニメーション。夕日。フロッピーディスク、HELVETICA。

マッキントッシュが武器として機能していた90年代、ステロタイププロダクトは、確実に、その瞬間、最もネイティブでアンダーグラウンドな東京を表していた。それは騒々しくてポップで刺激的で混沌としていて、彼は僕らにとっての全てを詰め込んでいたし、僕にとっての一番大事な瞬間をその作品に詰め込んでいた。それもすごくピースでトリッキーに。

御冥福をお祈りします。

荒武 聰(サーティースリー)
8年前、吉祥寺のお店で初めて会った彼は、あまりしゃべらないとてもナイーブそうな青年という印象でした。それからデザインの打ち合わせや徹夜のブレーンストーミングや麻雀なんかの遊び等を一緒にやって彼と関わっていくうちに見方は大きく変わりました。彼は刀の代わりにマウスを持って時代の空気を切り裂く、現代の天才肌の剣舞士のようなものだったように思います。その切れ味はウチのお店でもすぐに評判になり、なんの雑誌等にも出ることなく、お店でのインフィメーションもないのにモノ(Tシャツのグラフィッィク)の力のみで飛ぶように売れていきました。今から考えると奇跡のような事象だったように思います。それから彼の商品は全国から海外にまで、その切れ味が伝わっていきました。ステロタイプとサードストーンとの共同イベントを渋谷でやった時、彼が無我の境地で踊る姿(彼はお酒も殆ど飲まない超クリーンな人でした)は今でも目に焼き付いています。何かを壊し、何かをまた生み出そうとしている探求者をその姿に見ました。

なんて山田君、天国から見てたら「死んだもんのことを畏まって語るなんて、何面白味のないこと言ってんですか、そんなんどうでもええから先、進みましょ、また何か面白いこと考えましょうよ。」って言われそうだな。ここは勘弁して下さい。そう書きたいんだから。言って仕方ないことだけど、敢えて言いたいです。10年後の山田君の剣さばきが見たかった。それは途方もなく第一ステップより華麗な舞いになると思っていたから…。

33にそして僕自身に力を与えてくれた山田君ありがとう。 またどこかでその力を借して下さい。

村上 隆
山田大補君。享年30歳。ステロタイププロダクト、ディレクター。
死因は心筋梗塞と言っていた。
物凄い仕事好きなやつで、きっと仕事し過ぎちゃったんじゃ無いか、と思う。

彼等を教えてくれたのはSHOP33の荒武さんだった。
まだ彼等のブランド名はアシュラファーストというテクノ系の服飾ブランド名だけだった。
ステロタイプがデヴューしはじめだった頃、大阪の山田君のスタジオまで仕事をお願いしに行った。ぼくもまだ駆け出しの33歳ぐらいで、彼等の斬新なデザインワークが欲しかった。ステロタイプは山田君と児玉健一君の2人でやってたデザインユニットだ。当時、彼等は22歳ぐらいだったか・・・。
小山登美夫ギャラリーという今や世界の小山ギャラリーとなってしまった画廊が、全然小さいし、有名でもなくてその会場であれこれイベントも含めたぼくの展覧会をやるってことで、威勢の良いデザインをしてもらった。その後続けざまに3〜4つの仕事を一緒にやってその後は音信不通にしていた。でも、関わった数カ月はクリエーター同士の本当に濃い時間を過ごした。
なんていうんだろう…デザインでも絵を描く時でも、正直、真剣勝負。真剣に生きる。で、山田君とはつばぜり合いをチャリチャリさせてその瞬間は本当に生きていた!と思える時間で、今こうして思い出しても全部際どい心理的な戦闘を思い出す。本当に「生きている」って、その時はわかんないんだけれど後で考えると「そう思える瞬間の事を言うんだ」、と思った。彼とはそんな時間を共有出来た。

その告別式に行った。会場に到着した時は、皆泣いてて、それを見て「え!泣く事ないじゃん。山田君クリエイターとして、こうして最後まで仕事全うしてきたわけだし。凄い幸せだよ!山田君、よかったね!」と心の中で思っていた。ぼくはなんだか晴れ晴れした気持ちになって来ていてにっこりしてしまっていた。
で、ぼくにとって、こうやってしのぎを削った戦友の始めての死に目と言う事には後で気がついた。告別式も進行して行き最後のお別れで彼の死に顔を見た。死に顔を見た瞬間わっ!と胸が破裂した。涙が流れてどうしようもなかった。彼と過ごした短かったけれど濃厚な時間がドヴァっと押し寄せて来た。真剣に生きたよな!きっとずっと真剣勝負、し続けて来たんだよな。相方の児玉君が棺桶の山田君の顔をじいっと見つめていた。児玉君の顔は本物の愛で満ちていた。ぼくにあんな顔が出来るのだろうか?

山田君は死んでも、物、造っていそうだ。永遠のさよならを言わなきゃならないのはギリギリと辛いんだけれど、でも、生きて来た真剣な時間に造った物は絶対に人々の胸に刻印されて行くよ!ぼくの眼球の裏の奥にも、しっかりとモニター上を凄いスピードでデザインを構築していっていた山田君の仕事ぶりとその作品の画像がプリントされてるよ。
ありがとう、山田君。
そしてステロタイプ!今後も頑張ろう!
クリエイターとして、山田君の残した精神に続いて行こうね!ぼくは続いて行きます。
御冥福をお祈り致します。

※この追悼文は昨年8月末に村上隆さんから頂いたもので、「カイカイキキ」ホームページにてご寄稿頂いたものを掲載させて頂きました。http://www.kaikaikiki.co.jp/news/stereotype/
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